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哲学者「中島義道」 [書籍]

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哲学者「中島義道」の本3冊紹介します。
「働くことがイヤな人のための本」「狂人三歩手前」「私の嫌いな10の人々」
そうだ今日は軽く哲学しちゃおうと思ったら、面白い本です。
哲学とは徹底的にものごとを懐疑することから始まるからね。
フランスの哲学者「メルロ・ポンティ」も「真の哲学とは、世界を見ることを、学びなおすことである。」と言っている。
世の通俗や欺瞞をひきはがす反社会的思考。
そうとう毒があるので、食あたりならぬ、読みあたりにご注意
「私の嫌いな10の人びと」(新潮文庫)のほんの「さわり」を引用します。


「ひとの迷惑になることだけはするなよ!」とお説教する人

 わが国の津々浦々から飽き飽きするほど聞こえてくる「ひとの迷惑になることだけはするなよ!」
というお説教も、基本的には同じ構造をしている。「何をしてもいい。だがな、
ひとの迷惑になることだけはするなよ!」と続く。これは、長いあいだ
(場合によっては生まれてからずっと)柔軟な思考活動を停止したまま、
これまで生きつづけてきた人の、すでに思考の脳死状態から発せられるものです。
 彼(女)は、この言葉によって、自分がどんなに暴力的な要求を掲げているのか、
わかっていない。「ひと」とは何か?もしかしたら、大多数の人のことではないのか?
つまり、マイノリティー(少数派)を切り捨てる言葉なのではないか?
人間の多様性を見ないようにする言葉なのではないか?
「迷惑」とは何か?ある人にとって迷惑でも、
別の人にとっては歓迎するべきことかもしれないではないか。
少しでも、こうした疑いを自分に向けることをしない。
 
そのうえで、さらに彼らは「自分にされたくないことを他人にするな」と真顔でお説教する。
自分にされたくないことでも、他人はされたいかもしれず、自分がされたいことでも、
他人はされたくないかもしれないじゃないか!こんな簡単なこと、10歳にでもなれば
だれでも知っていることを、踏み倒し足蹴にして進んでいくんですから、驚き呆れます。

(中略)

 「ひとの迷惑になることをするな」というお説教は、さらに根本的なまちがいを犯しています。
人生とはたいそう過酷な修羅場であって、「迷惑」という言葉をいかようにも解しても、
たえずひとに迷惑をかけずには、生きていけない。
私が「お忘れ物・落し物のないようご注意ください」というお節介放送をやめさせたら、
そう言われなければ物をすぐに忘れてしまう人に迷惑をかけているかもしれない。
私が学生に「こんなくだらないレポートは受け取れない」と突き返したら、彼に迷惑を
かけているのかもしれない。‥(中略)

 私たちが生きるということは、他人に迷惑をかけて生きるということであり、
とすると「ひとに迷惑をかけるな」と命ずることは「生きるな、死ね!」と命令するようなもの。
しかも、だからといって自殺しても(普通)親兄弟姉妹はじめ、
膨大な数の他人に迷惑をかけてしまう。では、どうすればいいのか?
まさにここから思考を開始するべきなのです。正直にこの地点に立ち止まれば、
ほとんど五里霧中で途方に暮れていても、いや、だからこそ、一つだけくっきりと
わかってくることがある。それは「けじめだけは大切にしろ」とか
「曲がったことだけはするな」とか、「ひとの迷惑を考えてみろ」というたぐいのお説教は
簡単に口にできないということです。

人間観察も面白い。

「損をしてもいい」という人ばかりが集まっているのではないかと
思わせる光景が見られるときがあります。
それは、例えば、喫茶店で中年婦人たちがくつろいで(くつろぎすぎて、
たいそうやかましいのですが)、
さあお開きにしましょうと、みんな席を立とうというときにふいに起こる。
ある婦人(A)が眼前のレシートをさっとつかむと、
「じゃあね、きょうのところは、私のおごりで……」
とにんまり笑って残りの婦人たちに告げるや否や、さっと立とうとする。
すると別の婦人(B)が「なんでえ、それはいけないわ!そんなことしないでよ」
とAの手からレシートを奪い返そうとする。「いいのよ、この前はあなたのおごりだったんですもの」
とAは、テーブルから離れようとする。すると、もう一人の婦人(C )が、
「きょうは私におごらせて、お願い!」と叫ぶや、Aに払わせるもんかとばかりに自分も席を立って、
Aより先にレジに向かおうとする。Aは、それに追いつき、「奥さま、それはいけないわ!」
と大声で叫んで、レジに突進する。あとから、Bも追いつく。Cがハンドバックを開けてもぞもぞそれに
手を突っ込んでいるうちに、Aはさっと財布を出して、もう五〇〇〇円札を出してしまった。
それを横目で見ていたCは「あら、駄目よ!」と大声を上げる。Bも「困るわあ!」と叫ぶ。
この光景をさっきから目撃しながらレジにちんとかしこまっている女店員は、
そのお札をまじまじと見て、「これでよろしいんでしょうか?」と、
三人の顔を見比べながら尋ねる。時を」移さず、Aが「そうよ、お願いするわ」と答える。
すると、BとCは顔を見合わせて、「そおお、悪いわねえ。ごちそうさま。
今度は私におごらせてよ」と言い合う。

 なんという感動的な「譲り合いの精神」かとは、日本人であるかぎり、誰も思わない。
なぜなら、彼女たちが必死の思いで「おごりたい」のは、
そうしないと肩身が狭い思いをするからです。
みんな、いつ誰それがどれだけおごったかをよく心に留めていて、細かい計算をしている。
その結果、より多くおごられるほうは、あとで「けち」だの「鈍感」だの、はたまた
「人間としておかしい」だの、何を言われるかわからない。それを恐れて、
みんな他人より多くおごろうとする。Cは、自分が計算上危ない位置にあることを自覚したので、
体当たりで払おうとしたが、Aに先を越されてしまった。しばらくは、Aの傘下に入るよりしかたない。
Bは、やんわりと拒否したが、あのやり方では不十分であった、臍(ほぞ)をかむ。
次回は、どんなことが起こっても自分が払わねば悪い噂が立つ……こう心のうちでめんめんと
「計算」をして、三人は喫茶店の扉を押すのです。

 つまり、彼女たちは、自分がここで数千円の支払いをするより、払わずにいて、
あとあとまで「けちで金に汚い」と思われ、場合によってはそう噂されることのほうが、
よっぽど「損」であることをよく知っている。
だから、死に物狂いで払おうとするのです。


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コメント 2

komichi

私もこの人の本をけっこう読んでいます。
かなりへそ曲がりな哲学者でユニークですね。。

by komichi (2010-03-31 00:35) 

maru

自分でも境界性人格障害と言っているよね。
by maru (2010-03-31 01:30) 

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