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原節子 [雑記]

二十世紀、日本に咲いた、不出生の大女優である原節子さん
この写真が写された時期は、1920年6月17日生まれの原節子さんが、
16歳のときですが、瞳からは深遠な大和撫子の魂を
彷彿させるオ―ラが、ふんだんなく発揮されています。

この写真、「見出されてドイツへ」は、アーノルド・ファンク監督から
新しき土」のヒロイン役に請われて、出演した映画が、
封切られての渡独の時だったのです。

「新しき土」は随分辛かったろ?」
「エエ」
「今度ドイツへ行くんだってね?」
「エエ」
「アーノルド・ファンク博士に見込まれた
ってわけだよね?」
「・・・・」
「これで君も完全に世界の原節子に
なれるんだな。」
「・・・・」
インタビューの中で、原節子さんが発した言葉は、
「エエ」の二回だけだった。

このことからも、原節子さん気高い気丈さが垣間見られます。

マッカ―サ―が大船撮影場を訪ねたとき、戦後活躍していた女優が、
お出迎えに駆け出た中で、原節子さんが無視したことは
終始一貫した日本人の「魂」を現わしています。

原節子さんは、横浜出身ですので、戦争末期に米軍の無差別爆撃によって
横浜が廃墟にされ、多くの友人知人が焼死させられた記憶がありありと、
残っていたときに、日本人であれば、迎える気持ちなど起きるはずがありません。

たとえそれが、当時、草木もなびくマッカ―サ―GHQ最高司令官であっても
揺るぎない日本人の信念だったのでしょう。

横浜の惨状は、マッカ―サ―本人も、厚木飛行場から横浜のホテルへ行く
道すがら、「死の街」になっていた同地を見て驚愕し、
「総力戦は恐ろしい」と、主治医に語ったほどです。

原節子さんは、品格ある日本人の魂を、小津安二郎監督作品、
「晩秋」「麦秋」「東京物語」で表現され
1963年、大女優のまま忽然と銀幕から去りました。

それは未来永劫「永遠の大女優」として、
日本人の「心の銀幕」に記憶されるための
配慮だったと、思えてなりません。


水間政憲氏文章より流用

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